◎スライド34
金光教と
大本教の話をして、あと色んな教団を簡単に特に印象深い・・紹介します。
最初
金光教なんですが、天理教が1830年代だったんですが、金光教は1850年代丁度江戸時代が終わる直前でぐらいですね。岡山県の農民
川手文治郎って男が
弟が神懸かりになったのを切っ掛けになって、自分も神の声を聞くようになったっていう人がはじめた宗教です。 今でも岡山県に行くとですね、金光町ってのがあり、そこが本部になってます。
金光教の特徴は、建築的になかり困惑する・・一っは「
みんな平等になる」ってことを言ったんですが、
面白いことは空間概念で、重要なことを言っていてですね、彼が宗教を自分で作った時と関係あるんですが。いまで言う家相っていうのかな。方角だとか、この付近はいいとか悪いとか、そういう教えが・・家相見みたい人が・・今もいますけども。
川手文治郎はそういうのを
すごーく信じる人だったんですね。そういうのを気にして自分の家を増改築したり、結婚式の日だとか・・いろんな日取りを決めたりとか、ものすごく・・一生懸命やってたんです。
ところがある時から不幸がズート続くんですよね。近親の人がドンドン亡くなってしまうとか、飼った牛が死んでしまうとか、飢饉になったりとか、
次々に不幸な事件が起こる。それを切っ掛けにして、考え方をガラッと変えます。
重要なのは・・そういう方位のほうで
艮(うしとら)の金神って言ってですね。東北の方はとにかく悪いっていう、
「鬼門に当たる方向は悪い」っていうのがあるんですが。
艮の方向に金の神様、
金神っていうのを逆に祀りの対象にするんです。どういうことかというと、彼は反省をするんですよ。ズーットいろいろ「
方角とか日付をみてもらって、この人は良くないから止める、とかこの人はイイからやる。ということをズーットやっていた」
あげくに不幸なめにあったんで、「
なにが悪かったんだろう」とズート反省してですね、結論として、こういうことを言うんです。
それはようするに「
神様の目を盗んでこの日にモノを作ったり、神様の目を盗んでこの方角に作るっていうことをやっている」と。それはよく考えるとそれは「
神様に対して失礼なことなんじゃないか・・」
佐藤 多いに笑う
ていうふうに考え方をかえるんですね。そこでどういう結論をだすかっていうと、
金神の神様、東北の方角の神様をむしろ祀ってですね、毎回「
何かやるたびに神様に必ずお伺いを立てる」と・。常に回って動いているんだから・・そうすれば「
いつものを作ってもいい、どの方向にどうやったっていい」ってゆふうに考え方をかえるんです。逆転させて。
ある意味では方位に縛られた考え方を近代以前だとしたら、逆に最も悪いとされてる神様を持ち上げることによって、いつ・・作っていいしどんな方角に作ってもいいし、ある意味では
方位観を解体するところがある。そういう考えかたを導入しました。
もう一つ重要なのは、
広前っていう概念をだして。
広前っていうのは神様と人間を取り次ぐ場所の概念を作るんですが、その場を通じて・・ま、人生相談みたいなことをするんですけど・・。金光教の教主が丁度あいだを取り持って、いろいろ相談をするんです。
広前っていうのは世界中何処にあってもいい。そういう意味では天理教とはだいぶ考え方が違っていて・・
天理教っていうのは、地場っていう固定した中心点がだいぶハッキリしているのに対して、金光教は別に何処にでも広前っていう儀式の場所、取り次ぎの場所を考えたのは、かなり違っています。
大きな空間概念としてはそういうところが重要で、建築の話しに戻して行くとですね、最初に神様の、金光大神、最初に神様の声を教祖が聞くんですけども、「
2間の四面の宮を立てろ」っていうようなことで、最初の建築を作り始めます。
途中まで作ったのがこれ
(スライド34)らしいんですけども、唐破風っていう、こういう曲線を描いた屋根の形なんですけど。これだけ残ったものなんですけども。
ただこのプロジェクトが実は
途中で挫折します。何度も・・、なぜかというと。大工さんに・・ある大工さんに依頼したんです・・
大工さんがお金を横領しちゃう・・ですよね。
信者のお金を集めて、せっかくお宮を作ろうとした大工さんが・・自分のことにお金を勝手に使って、いつまで経ってもとうとう完成しないっていう事件があってですね。結構
金光教の中ではトラウマになるんですよね。 その後だからお金の管理については非常に厳しくなります。
その時途中まで出来たのが、この唐破風という形だけ出来てですね、後でこの形が生き残ることになります。
◎スライド35
この図面なにかというとですね。
金光教は1900年に国の公認を得ます。だから活動をはじめて40年たった段階なんですよね。
さっきも話題に出てたんですが、国から公認を得るためには教義をしっかり整えたりだとか・・、教団の組織をキチンと報告する書式がないと認めてもらえないんです。
あるいみではとても皮肉なことなんだけど、
金光教も国に認可してもらうために教義をしっかり整えるってことやるんです
佐藤 笑う
その時に建築のコトガ問題になるんですよね。国の・・当時の文部省の宗教局から、「
どういう建築を・・君たちは作るつもりかね」ーて言われて、何のイメージも実はなかった。金光教は・「
神社みたいなもの」としか漠然としかいわなかった。「
それでは困る」って言われたんです。
なぜかというと、一つは当時
宗教の法律で、ちゃんとした神社じゃないところは神社に似てる建物を作っちゃイケナイという・・ガイドラインがあった。類似したものが神社みたいなことやると民衆が間違えて、お参りするかもしれないし、そういうのを逆に「
悪用してはイケナイ」っていうことで、あんまり新宗教が「
神社ふうのモノを造くっちゃいけない」という取り決めがある。
おそらくそういうことで宗教局が指導する時にも、金光教にどういう建物を作るか一寸確認したんです
それで「
そんなことジャだめだ・・」っていうんで、「
君たちの教団でどういう建築様式がいいか考えてこい」って・・慌てて作ったのが実はこの図面です・・認可得るために。
でその時にどうやって考えたか、というとまー・・いろいろ建築の関係者に相談するンですけども・・要は宗教建築っていうのはなにか教祖が生きていた頃の・・このころ亡くなっている・・
教祖が生きていたころの形を手がかりにするんですよね。そうすることが
一番説得力がある。
それでまず、最初入り口の玄関の所、
向拝の所に唐破風の形が入っている。
教祖が生きている時に作りはじめ未完成におわったプロジェクトでこれだけ残ってるから、これを採用してんですよね。
教祖の住んでた家の形も若干採用されています。ちなみにこういう形・・入母屋妻側が正面、庇があり唐破風があるっていうことです
◎スライド36
これは米子で撮った写真です。
米子にある金光教の教会で、これ見てもわかるように、さっきの図面とほぼ同じ形をしていて、教団の認可を得て、20世紀初め、各地にドンドン教会が建つんですけど。その時に作っている教会っていうのは、かなり厳密に・・教団が決めた建築様式に従っているんですね。
これなんか典型例なんですけど、ほぼさっきと同じ形式の建物になっている。
だからこれもある意味じゃ皮肉なことで、
教団が自発的に形を考えたというよりは、国からまず認可を受ける時に教義を整備して、図面も慌てて一緒に作ったっていうことが、逆に既製事実化して、実際の建築にフィードバックして返って来きて・・。初期のころっていうのはこれに近いタイプの教会があちこちに作られたりしています
◎スライド37
その時に作った平面図なんです。平面図の形式も・・細かく説明してると・・なんで説明しませんけど、何処に何を置くかという話も、教祖が生きているとき、こんなエピソードがあった、
こんなエピソードがあったっていう話を継ぎ接ぎしていきながら・・平面の形式を作っていきます。
平面の形式はかなり・・ほぼ現在でもキチンと生き残っている。外観は、このときのものを・・かなり自由になっています。
◎スライド38
金光教の町に本部があるんですけども、一度こういう本堂が出来るんですけど、この形もさっきの図面とほぼ近いです。
ところが金光教の中では建築的に不幸の事件が幾つかあってですね。さっきの
横領問題もありますが、1
925年だったかな、火事がおきるんですよね。火事がおきて一度ここまでできた建物が・・この黒いヤツがそうなんです・・全部焼けちゃってですね・・できて数年しか経たなかったんだけど。本部の
一番主要な施設が焼けてしまいます。
◎スライド38
そのあと再建の・・復興プロジェクトがおきるんですけど、いろんな案が幾つかあるんですけど、このへんが全部焼けてしまって、ココを中心軸にして、また一番重要な本部を作る・・プロジェクトを作って。
1930年代にかなり動くんですが、最終的にはですね・・実はまたこの時もそうとう教団がケアしていたにも関わらず、お金の・・
会計上不明瞭な金がでてきてですね、
挫折してしまうんですよね・・
結局実現しないまま、戦時体制に入ってしまって、結局未完成に終わってしまいます。ただ金光教の場合すごいお金に対して、
寄付を強要しないだとか・・いろんなことをやるんですね。
つまり浄財であったとしてもそういう無理矢理寄付を強請したようなお金だとか。だれがいくら寄付したっていう一覧表で並べると・・まー・普通にいまでも神社やお寺でもやってますけど、そうゆのやらないとか・・金光教言ってるんですね。
そういうのやると、だれがイクラ寄付したかって競争になっちゃうから、あくまでも
浄財とかってことをいって、ですね。
かえって建築を作るに関してはネガティブな要因に・・なぜかというと、ものを作ろうとしたらやっぱり、いつまで幾ら資金が必要だって、計画的に出来ればいいんだけども・・わりと金光教はその辺・
自発性に任せてやってしまったために、プロジェクト立てても、いつまで出来るという目処が立たないんですよね
。時間もかかってしまいました。
一方
天理教は10年毎におっきなお祭りをやるんですよ。教祖が死んで10年目20年目・・そういう節目毎に大きなプロジェクトを仕立ていて、それに合わせてお金も集めて、建設計画も全部進める。
システィマティツクに進めるんで、ドンドン大きくなるんです。金光教は一寸うまく機能しなくなる気がしてます
◎スライド39
これは今ある金光教の町、手前が本部で、手前にあるアーケードです。この写真で何となく想像つくように、天理教に比べると、だいぶちっちゃい町で、一番最初の段階では金光教のほうが先に発展したんですが、今は逆に天理教のほうが大きな町として展開していきます。
◎スライド40
これは現在の金光教の本部にあるヤツで、戦前の復興プロジェクトが潰れて、二つ大きな広前祭堂と広前会堂というのを作って・・。これは早稲田大学の建築史の先生
田辺泰っていう人がいる。その人が設計に関わって実現します。
なぜ彼に仕事が依頼されたかっていうと、建築史の先生で日本建築の宗教モノに詳しかったってこともあるんですが、
田辺さんというひとは実は金光町の出身者だった。彼が信者かどうかは、何ともいえないです・・この町に生まれたっていう・・そういう縁で仕事が来ました。
見ての通りですね・・天理教も出てましたが、
千木が・・入ってますね。伊勢神宮と同じように。でこの
千木が入ってるっていうのは神道系列だった。それを表現して・。
これなんか皮肉なんですけども、さっき見せた図面、1900年に作った図面はむしろお寺ふうの建築。
善光寺スタイル。善光寺ふうの建築んなんです。それは国から神社みたいな「
あんまり似ているものを作るな」って指導されたんで、明らかに
神社とは似てないお寺スタイルのものを作った。
戦後は逆にですね
、神道的な形を自ら作って行くのは面白いかなといえます
◎スライド41
さっきのは50年代、これは70年代。同じく
田辺泰。これもやっぱり
千木がある。ヤツパリ金光教の中にも実は議論があって、作る時の記録を見るていると、「
千木があることは神社建築を連想させるからダメなんじゃないか」、という議論がヤッパ起こるんですよね。
で、それにそれに対してどういう回答が有ったかと
天地根元造りっていう様式があります。日本建築の様式のなかで、日本建築史のなかで一番原始の家っていうのはこういうものだったっていう、
架空の想像上の家の様式があるんですよ。
それは戦後においては学問に置いては完全に否定されていて、それは
戦前に作った捏造・・捏造なんですね。そんな起源の住宅なんか無いんだけども、ただ天地根元造りのカタチにも千木に類する、交差する台があるんで・・それから来てるっていうような話を作って、最終的には通します。
これは正確に教団内では「
神社ではなくて」、神社っていう宗教が発生するさらにそれ以前の、「
日本の最も根元的な住宅の作り方からこれが来ているんだ」っていうことで説明がなされた
◎スライド42
戦後の金光教の建築で最も変わっているやつは、たぶんこれだと思います。有名な建築家の
六角鬼丈さんが作ったものです。福岡にある教会で、巨大な円筒形の判子みたいな・・巨大に金・・丸金・・つていう字が・
佐藤笑う 会場笑う 丸金・・・
80年代だったと思います。初期の頃はさつきの様式にみんな従って作っていた。ダンダンそれが緩くなるですよね。戦後はかなり自由になって、いまでも復古的にそれに似たようなモノを作るのがあるんですが・もー完全に自由になったて分かるのはこれです。
ただ
平面の形式はさっきの図面とほぼ同じになっていて、そこはしっかり守ってるんですね。
これなんか六角鬼丈がですね、面白いこと言っていてですね。「
この模型を教団の人に・・福岡の人に見せにいったら・・」、六角鬼丈はたぶん「
だめだ」て言われると思って持っていったんですよね。実際福岡の教会の・・決める立場にいるほとんどの人が「
ダメだ」って言ったんですよ
佐藤笑う
ところが一人だけ長老みたいな人が「
みんながダメだっていうんだからこれはすごい」って
佐藤 大笑い
強引に通そうって・・通ちゃったらしいんです
会場笑う
「
みんながだめだってことは実はすごい」・そういう不思議なことを考える長老さんがいて、六角鬼丈も「
ほんとに通った」つて 驚いたらしいんですけど、そういういきさつでこれができました
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